ややあってから彼は戸惑ったような声を、その端正なる唇から紡ぎ出した。 どうして貴女がここにいるんですか、と。

「理由がなきゃ私はここに来ちゃいけないの?」
















人は皆、彼が敬語を使うのを珍しいという。 けれど私にとって彼は初めから礼儀正しい子であった。 それから、とても紳士的だとも思う。 今だってホラ、部屋の主である彼に断りもなく勝手に部屋に入り、あまつさえ彼のベッドに寝転んで雑誌を読み耽る私を、 怒ることも咎めることもせず、更には微笑みさえをも浮かべながら、ベッドの私の腹部辺りに腰を降ろしている。 何をするでもなく、彼はただじっと私を見つめ、私の髪を掬い、零し、ゆるりと笑う。 その、なんでもない日常が私は好きであった。







「猛くん、好きだよ」

不意に思い立ち、起き上がって、彼の目を見ながら言葉を放った。 少し顔を赤くさせた彼は、長身の男ではあったが、何とも可愛らしかった。 それを言ったら怒るだろうか。 もしかしたら、今以上に顔を真っ赤にして羞恥と憤りを織り交ぜたような感情を露にして、そんなことないですよ、と言うかもしれない。 (ああ、細かに想像できてしまったじゃない) 自分の想像力、いや妄想力とも云えるものによって出来上がった彼に、思わずクスクスと笑ってしまう。 それを赤面したことを笑われたと思ったらしい。 彼は眉間にひとつ、皺を作ってみせた。 しかしそれは、すぐに元の微笑みに戻る。

「俺も、さんのこと好きですよ」

にっこり、という表現が一番適切か。 なんて爽やかな笑顔。 きゅん、小さく胸が鳴った。

「ありがとう」

それを隠すように私も口の両端を柔らかく上げた。 はたして、と云うべきか彼は唇を尖らせて言った。

「少しは照れてくれないと、俺ばっかり照れてるようで不公平です」

なんて可愛いことを言うんだ、この子は。 こっちは年上のプライドをもって顔に出さないようにしているだけで、いつも貴方にドキドキさせられているというのに。

「私だって十二分、猛くんにそうなってるよ?」
「…そういうのが狡いんです」
「そうかなぁ」
「でも、好き、です」

きゅん。またひとつ胸が高鳴った。






―――大和猛 口の中でその名を転がしてみる。 ふわふわと心が踊りだすのを心地良く感じるのが嬉しい。 私が本当に彼を好きなんだと、私が私に証明できる瞬間であるからだ。 尤も、そんなことをせずとも、私の心はとうに彼の虜なのだけれど。

「ね、猛くん」

目を合わせると、その目が続きを促してくる。

「いつかね、猛くんがいいって思ったとき、私を猛くんのお嫁さんにしてね」

できたら六月がいいな、……どうしたの猛くん、猛くん?彼は目を大きく開いたまま固まってしまっていた。 私はなにか変なことを言ってしまったのかと、先の自分の言動を思い返してみたが格別おかしな所は見当たらない。 もう一度呼びかけると、ようやく彼の意識はこちらに戻ってきた。 アメリカ帰りである大和猛という男は、流石というべきか自分から行動に出るのに、躊躇いも戸惑いも恥じらいも持たないが、 どうにも、行動される側に立つのは弱いらしかった。 好きだ。 好きだ。 心から彼を愛おしく思う。

「貴女は本当に俺の心を掻き乱すのが得意ですよね」
「ありがとう」
「褒めてませんよ」
「いやいや、褒め言葉として受けとっておくよ」

敵わないなあ、貴女には。そう言って私を引き寄せた。 自然私は彼の胸に頭を預ける形となる。 とくり、とくりとスポーツ選手ならではの、規則正しくゆっくり奏でる心音は、温かくて優しくて、目を閉じるとそこはかとなく心安らぐ。 そろそろ三月も終わる今日は、外に出ればまだ寒さを感じるが、部屋にいる分には十分暖かい。 そこに安心する彼の体温さえも感じるのだから眠くなってしまうのは仕方のないことだった。 次第に落ちてくる瞼に逆らう術を私は知らない。 小さく欠伸を噛み殺すのをめざとく見咎め、私の体をまるで壊れ物を扱うかのように抱き上げ、自分のベッドへ横たわらせた。

「寝てていいですよ」

唇に感じる程良い温度。 落ちてゆく意識の端に、猛くんおやすみと唱えた。















(もう少し、俺に対して危機感というものをですね、持ってもらわないと困ります。俺だって狼の一人なんですよ?)

それを知らずか、或いは態とであるのか彼女の顔はあまりにも幸せそうであった。 彼はそれを認め微笑むと、読みかけの本を再び読み進めるために、近くのソファーに腰掛けた。 この静かに流れる時は、ましてや不快なものでは決してなかった。